2004年
隣に座らなくて良かった! 2004年12月


 電車の中で突然怒鳴り声が聞こえた。優先席がある車両の端の方からである。何事かと目と耳を澄ませた。「イチャイチャしてんじゃないよ!やるならてめえの家でやれ!!そこは優先席だろう!」職人風の(大工職人が身に纏うような作業服を着ていた)20代半ばの男性が怒鳴っている。怒鳴られている相手は、私の座っている位置(中央の座席)からはよく見えないが当然カップルだ。(抱き合ってキスをしていたようだ?)見たい気持ちで一杯だが、席を立って覗く勇気が私には無い。男性は、私の席からはよく見える。酒を飲んではいない様だ。声はかなりトーンダウンしたが、対面の席に座った状態で、さらに二人を叱責している。
 しかし、しばらくした頃、叱責されていた相手が切れた。「ざけんじゃねーよ!おめーに関係ねーだろー!!」。我が耳を疑った。それは紛れもなく女性の声だ。ヒステリックに喰いつく女性の声が、しばし車内に響いた。逆に隣の彼氏は、全く無言である。叱責していた男性も呆れたようだ。相手にしないで聞き流している。ようやく車内が静かになった。

 今度は、叱責していた男性の鉾先が隣の中年(壮年)男性に向けられた。「だいたいね、あなた方、大人が見てみぬふりするのが一番いけないんだよ!大人が無責任だからこんな世の中になったんじゃないか!!」。気の毒なのは、中年(壮年)男性だ。バツが悪いのだろう、言葉がない。あそこに座らないで本当に良かった、と胸を撫で下ろした。でも、バツの悪さは、私も含めて乗り合わせた多くの大人が共有したはずだ。やがてカップルが下車した。降りる二人を見て、私は愕然とした。男性は20歳前後のフリーター風。女性は、厚化粧をした女子高生だった。

 この記事を書いている今、偶然にもテレビ「たけしのTVタックル」で『迷走する日本の教育』と題して議論している。おかしな世の中になってしまった。何が悪いのだろうか?人ごとでは済まされない、と思いながらもなす術がない。

 平成16年、最後の配信になりました。「癒される話」「考えさせられる話」「感心させられる話」をテーマに綴ってきました。1ケ月に1回なのに結構キツイ仕事です。ネタ切れで悩むことも多々ありました。でも、多くの皆さまに見ていただきたくて頑張ってきました。このホームページの閲覧順位が世界で何番目かが分かるのです。この秋、ほんの少し講座や講演の中でPRさせていただきました。90万番台の順位が、今日は、319,505番目です。ご覧いただき、本当にありがとうございます。来年も素敵な宝石を貯めて参ります。時間との相談ですが、リニューアルも検討中です。今後も、ぜひご覧ください。
 


電車の中で 2004年11月

10月もハードな1ケ月だった。体調を崩さなかったことが救いである。相当に疲れているようだ。電車に乗ると、無意識に空席を必死で探してしまう。S市の研修が終えたときも疲労はピークに達していた。電車に乗ると優先席が空いていた。最近は、ためらいもなく座ってしまう。その優先席、私の隣が2席空いている。目の前には、40代半ばと思われる女性が3人立っていた。心の中で、“早く誰か座って”と叫んだ。願いも虚しく、乗換駅までの20分ほど、結構混んでいるのに誰も座らなかった。ひとり座っている自分が、何となく恥ずかしく無性に老いを感じた。乗換電車でも座れることに期待した。今度は、優先席で10代か20代はじめの若者が3人通路に足を投げて座っていた。

電車の中で、本や新聞を読んでいる人が少なくなった。その分何をしている人が増えたか?携帯電話を片手にメールを打って(読んで)いる人、平気で化粧をしている人が圧倒的に多くなった。いつだったか、前側の席の全員がメールを打って(読んで)いた。異様な光景を見た気がした。余計なお世話と叱られそうだが、不思議に電車の中で化粧をする人に美人は少ない。ほとんどがその逆だ。

千葉と神奈川を結ぶ総武横須賀快速線には、グリーン車が2両ついている。横浜方面の仕事に伺うときは、いつも利用している。往きは、講演や講義の予習のために、帰りは人目を気にしないで「お疲れさん」のお酒が飲めるから。ガラガラだったグリーン車が、数ヶ月前から利用者が増えてきている。景気回復の兆しのせいか?そうだとしたら嬉しいことだ。逆に腹の立つこともある。小学生がグリーン定期で通学している。貧乏の中で育った私のそれはひがみだろうか?

久しぶりによい本と出会った。ある新聞に載っていた6歳の男の子の書いた「ちりがみ」と題する詩を紹介していた。「ちりがみかして ぼく もってるよ 正平くんは おべんじょへ はしっていった ぼくも スッとした」。この詩の命は、最後の1行にある。(これがなかったら、詩にはならない)ウンコをしたのは正平くんである。それなのに、彼が終わったとき、「ぼくも」スッとした、という。ここには、いのちの共感がある。と著者は、共感の大切さを説いている。いま私は、櫻木健古氏の「生きるヒント 1日1話」を電車の中で読んでいる


 


ものの見方・考え方 2004年10月

地元でタクシーに乗るときは、よほどのことがない限り「K社」の車と決めている。だから馴染みのドライバーも多い。この会社は、創業社長が他界され(一昨年?)、現在はご子息が二代目社長(42歳)で頑張っている。私は、ご本人を存じ上げていない。しかし、ドライバーの皆さんとの車中での会話のやりとりから、さまざまな情報を聞くことができる。先代社長とは、性格も全く違うらしい。そして、経営感覚や手腕も違うようだ。タクシー業界は、不景気が影響して厳しい状況下にあるようだ。大阪などでは、値引き合戦が繰りひろげられていることも聞く。“お客の奪い合い”。言葉は悪いがそうしなければ死活問題になるのであろう。

そんな中でK社の社長の発想がおもしろい。住まいの近くにF病院がある。評判が良いようで患者も多い。病院とタクシー会社は密接な関係にある。高齢化が進むほど、自宅と病院の往復にタクシーを利用する人が多くなる。タクシー会社にとっては、昼間実車率を上げるために欠かせない場所である。F病院には、もう1社Mタクシーが営業を認められて入っている。ある時、病院側から「乗り入れは、今後、Kタクシー一社にしたいが・・・」との申し入れがあったそうだ。願ってもない話だ。しかし、K社の社長はそれを断った。その理由は、「独占になるとドライバーの接客レベルが落ちること。結果、その低下が他の場所で実車したときにも影響がでるのではないか」、と懸念したためである。コール(電話での依頼)配車が売り上げの多くを占める昨今。リピーターを失わないこと、リピーターを増やすことが至上命題である。そう考えると、K社社長の決断が頷ける。“競争することでこそレベルが上がる”。懸命で賢い考え方と恐れ入った。

自分の世間知らずをさらすようで恥ずかしいが、こちらの方もよく存じ上げていない。芸大を主席で卒業して、現在は海外を拠点にして活躍しているとのことだ。日本画の千住 博画伯をテレビで拝見した。絵の具は、自らが念入りに相当時間をかけて調合することを知った。そうすれば絵は千年もつと言う。なるほどと感心した。それと、「私の仕事は、死んでからが勝負です」そのひと言が、今でも強烈に耳の奥に残っている。賢人は、先をみて今を生きているのだ。また、勉強させていただいた。


 

月曜の夜が変わった!そして泣いている 2004年9月

月曜日の夜の過ごし方は、よほどのことがない限り必ず決まっていた。仕事先のホテルに泊まっている時も、自宅にいる時もそれは変わらない習慣だった。この時期ならば8時から「水戸黄門」を、そして9時からは「たけしのTVタックル」を観る。それが定番であり、欠かしたことはほとんどなかった。しかし、そのスタイルが3週間前から変わった。

何気なくNHKにチャンネルを回した。名優「西田敏行」が演じる『ジイジ〜孫といた夏〜』に釘付けとなった。訳あって息子と縁を切っていたジイジこと西田敏行が、福島から嫁家族の住まいを訪ねてくる。一人息子は、既に3年前に他界していた。招かざる訪問者に、古手川祐子演じる嫁と孫3人(長女、長男、次男)の風当たりは半端ではない。ジイジは、製材工場をたたみ自宅を売って上京してきた。リュックサックの中には、亡き妻の骨壷を入れて。だがその訳は誰にも話していない。「地方では手に負えない、東京の病院で再検査を受けるように」との紹介状を握りしめていることも・・・ジイジは癌に侵されていた。今流の子供(孫)に接しながらも、批難だけだったり媚びたりは決してしない。生きることの大切さとあるべき姿を真面目に説いている。お説教くささは微塵もない。癌に侵されているせいだけではないと思う。ジイジの人間力を感じさせる。わが子に先だたれた無念さも、ひしひしと伝わってくる。そこには、私の亡き父の姿がオーバーラップしてくる。父も自分より30年も早く長男を亡くしたから。なぜか涙が止まらない。

ジイジは、どんなに嫌われても信念を曲げない。そして、真正面から孫に向き合う。そんな場面がふんだんに画面に流れる。私たちが忘れている心に警鐘を鳴らしているようだ。反発していた孫たちが少しずつ心を開いていく。その度に涙が溢れて仕方ない。そして、両親のことが思いだされてならない。私は親からみたらどんな子供で、私の子どもはどんな孫だったのだろうか、と反省させられる。おりしも初孫が片言を話すようになり、いま私も「ジイジ」と呼ばれている。

私は、社会人の共(教)育に携わる仕事を職業としている。“向き合う”研修を真面目に考えてきたつもりだ。でも、研修屋から研修家に脱皮したつもりでいたが、“ジイジのような向き合い”にはまだまだだ。また先が見えなくなってきた。そして、私の苦労が再び始まる予感がする。今日8月30日(月)は、3週間ぶりに自宅でテレビを観た。家内も同じ番組をみていたようだ。

《追伸》おかげさまで多くの仕事を抱えて、研修のない日は休みも返上して資料づくりに追われている。サマージャンボの宝くじの当たりを見ていなかったので、家内に調べに行かせた。夢中で仕事をしているのに電話が鳴った。また営業の電話か、とうんざりした気持ちで受話器をとると、家内が「当たったのよ!」と電話の向こうで大興奮している。私も足がふるえた。動悸が凄い。「これで仕事がやめられる!」正直そう思った。聞いたら「1万円」とのこと、完全な勘違いだ。「忙しいのに、そんなことで電話するな!!」と怒鳴ってしまった。
 
 

学ぶ姿勢から学ぶ 2004年8月

 研修を担当していると、実にさまざまな参加者と出会う。疲労困憊、自信喪失に陥る時もあるが、多くのエネルギーや感動をいただいて帰ることの方が圧倒的に多い。だからこの仕事がやめられない。
 いつだったか、講義の中で雑談的に“貧乏ゆすり”の話をしたことがある。貧乏ゆすりをする人をよく見かけるが、ある時に、ふと「なぜ男性だけ何だ!?」と気がついた。そんな疑問を何気なく話しただけなのだ。お昼の休憩が終わる少し前に、一人の男性がにこやかな表情で語りかけてきた。「先生、“貧乏ゆすり”の件、分かりましたよ!」と。ネットで検索した資料を私に見せながらその訳を説明してくれた。「なるほど!」理由に感心するとともに、
そのことを調べた彼の姿勢にもっと感心した。
 つい先日も、主査級職員の研修でこんなことがあった。テキストを読んでいただいたところ
『先ず』を『さきず』と読んだ職員がいた。こんな時、講師の対応は難しい。一通り読み終えたところで「先ほど『さきず』とお読みになりましたが、確かに今はこのような書き方はしないのかも知れませんね。『まず』と平仮名で書くのが正しい表現かも知れません。あとで調べますのでご了解ください。」とだけコメントして授業を続けた。この時も、休憩中に調べてくれた人がいた。最近では、『まず』と書くのが一般的とのこと。私は両者とも、「調べて欲しい」とはひと言も言っていない。しかし、彼らは調べてくれた。学ぶこととは、元来こう言うことなのだと思う。調べることを学ぶ、それが重要なのだ。以来、私は、その場では意識的に説明しないことがある。そして、次の日には逆に、意図的に触れることがある。「昨日の講義の中で○○と言う表現をしましたが、その意味を調べてみましたか?」などのように。そして、知らないことが恥ずかしいのではない。知らないことを調べないことが恥ずかしいのだ、と説くようにしている。指導の仕方を、彼らから学ばさせていただいた。
 最近、担当したプレゼンテーション研修の参加者Dさんから便りが届いた。Dさんらしい心のこもったオリジナルで素敵な暑中見舞いである。そのときの研修は、人数も多く、心身ともにかなり疲れるものだった。自分の力量の無さも悔やまれ、帰路に着く体は、鉛が入ったように重かった。でも、
心の中で灯る火があった。Dさんからいただいた素晴らしいエネルギーが燃えていた。私よりも参加者の誰よりも、心身ともに疲れていたのはDさんなのだ。歯を喰いしばって、Dさんは、2日間自分自身と必死に戦っていた。私には、そのことがよく分かった。馴れた人でも、大勢の前で話すことは、相当なプレッシャーである。詳しくは書けないが、Dさんのプレッシャーは、想像を絶するものだったことは参加者の誰もが知る事実である。帰り際のDさんの様子が、はっきりと目に浮かぶ。目に涙をいっぱい浮かべながら、「ありがとうございました。ありがとうございました。」と何度も何度も頭を下げてお礼を述べてくれた。こんなに心のこもった「ありがとう」の言葉を聞くのは何年ぶりだろう。そんな気さえする「ありがとう」だった。人さまに生かしていただいている、私も心の中で「こちらこそ、ありがとう」を繰り返した。また、学ぶ姿勢から学ばさせていただいた。暑中見舞いの文字の行間から「元気で、勇気を持って生きていきます。」そんな声が聞こえてきた。
 
 
 

一事が万事 2004年7月

 『菊の会』は、Kさんの小学校時代の同級会の名称である。3年、4年、5年の3年間お世話いただいた担任の菊地先生(新任)の一文字をとって命名したと言う。とても素敵な先生だったことが窺える。卒業してから50数年経った今でも、その会は続いている。

 今年も12年ぶりに1泊2日で4月に同級会が開催された。Kさんは、その時の幹事を務めた。住所不明の3名を除いた43名にハガキで連絡した。
意図的に、往復ハガキは使用しなかった。出欠の連絡は、電話でお願いすることにした。生の声での近況を聞いて、欠席者の様子を、Kさんの口から当日報告しようと考えたからだ。そのやり方がKさんらしい、と私は思う。電話で参加を伝えてきた人が28名、不参加を伝えてきた人10名、まったく連絡なしが5名とのことだった。
 同級会が終えてから、Kさんは、欠席者15名に
当日の様子を添えて記念写真と住所録を送った。それに対して、礼状をよこした人4名(うち、一人は手数料として500円の図書券が添えてあった)、お礼の電話をかけてきた人3名、お礼の連絡がまったくない人が8名。その8名の人のうち5名は、出欠の連絡をしてこなかった5名だったとのこと。
この話を、私はとても興味深く聞いた。情報通信技術がどんなに発展しても、それを使うのは人である。ようはその人の
人間性の問題なのだろうな、と思った。『一事が万事』とはよく言ったものだ。自分もそのようなことのないように気をつけたいと思う。

 『一事が万事』で、もう一つ常々思っていることがある。それは、時間ルーズは仕事(研修)もルーズ、と言うことである。研修を担当していると、ことさらそのへんが見えてくる。時間厳守、それは当たり前のことであるが、これがなかなか難しい。でも、時間管理のできている組織は、研修への取り組みも総じて熱心である。仕事をきちんとしているのだろうな、と思えてくる。よい意味での『一事が万事』をめざしたいものだ。

 

 

贅沢からの回想 2004年6月

 部屋のエントランス6畳、和室16畳、その床の間3畳、クローゼット2畳、渡り廊下5畳、トイレ・洗面所・風呂で12畳、次の間の洋室とそこから入れる部屋付きの露天風呂で16畳。いったい何の話とお叱りをいただきそうだ。

 二人の子供が社会人になったら、夫婦二人でのんびりしようと思っていた。しかし、東京オフィスの購入や住まいの隣の家が売りに出たので思い切って購入したせいで、また莫大な借金を抱えてしまった。それでも、贅沢をしないで少しずつ貯金すれば、数年前から夫婦二人で海外旅行も楽しめるようになった。しかし、今年は、例年になく1月から仕事の連続。ゆっくりできない状態が続いた。5月の連休も仕事の準備に追われる有様。ストレスが溜まって仕方がない。予約して空いていたら、せめて一泊でも温泉に泊まろうと徹夜をして仕事を片づけた。5月3日、熱海温泉の○○ホテルの予約がとれた。娘を誘ったら、一緒に行くという。
一緒に旅行するのは、十数年ぶりだから、少し奮発して贅沢をすることにした。期待を大きく上回る部屋に案内された。それが冒頭の部屋の間取りである。親子して思わず感嘆の声をあげた。皇族が泊まるような部屋である。このように外で子供と泊まるのは、小学生以来初めてだ。嬉しさで酔いの回りも早い。「よく、どこかに連れて行ってくれたけど、泊まるのはいつも民宿だったね・・・」娘がしみじみと言った。そう言われて、昔は、本当に大変だったなぁ、とあらためて思った。

 子供が小学校に入学する前にと思い、小さな家だが苦労を承知で購入した。ローン金利が9%台の頃。まだ30歳前。
苦労しない訳がない。夫婦して親の蓄財には恵まれなっかたので、すべてが自力だった。家内は、当時としては晩婚だったため、子供を早くつくることにした。だから共働きも1年少々。生活は、毎月赤字だったようだ。家内の独身時代の貯金で生計を立てていたことを知ったのは、ずっと後のことである。

 
「芸は身を助ける」という言葉がある。家内の弟の結婚披露宴で司会を初めて経験した。大変だったが、面白く楽しかった。独学で司会術を勉強した。ある日、その道の専門家に認められプロ司会者としてデビューした。もちろん、会社には内緒である。忙しい時には、土曜と日曜の2日間で6本の婚礼司会をこなした。内緒のため、いつも後ろ髪を引かれる思いだった。だから、会社の仕事も、ことさら一生懸命頑張った。婚礼シーズンは、ほとんど休日も無く、がむしゃらに働いた。今思えば、そうしなければ生活ができなかったのかもしれない。だから、民宿にとまるのでさえ当時の私たちにとっては、贅沢だったのであろう。上司や先輩・同僚も、私が婚礼の司会をしていることを早くから知っていたようだ。でもみんな黙認してくれた。そのことに報いるためにも真面目に働かねば、と今でも強く思っている。

 ようやく楽になり、かなりの年収を得るようになった頃、研修会社の社長に後継者として誘われて転職した。子供たちが高校、大学と一番お金のかかる時期だった。その会社に勤め、年収は、大幅にダウンした。でも、若い頃の免疫ができていた。この時期もがむしゃらに働いた。バブルが弾けたあと、私はその会社を去った。
研修屋から脱皮するためのもがきだったのだと思う。独立したときも免疫ができていた。想像を絶する苦労もあったが、大勢の方が応援してくださった。だから、またがむしゃらに働いた。今年、私より数年あとに入社した後輩が、転職した研修会社の社長に就任したそうだ。その会社の社長にはなれなかったが、ようやく私は研修家になれた。家内は、もう寝息をたてている。皇族が泊まるような部屋のふとんの中で、私は眠れずにしばし回想に耽った。

 昨年まで、自宅の前は、素敵な林だった。その林も無くなり、今は50軒ほど家が建っている。金利9%台だった頃購入した私たちの家より10坪ほど敷地が広いが、ほぼ同金額で販売された。今とは比較にならない金額だから、苦労して当然としみじみ思う。でもすべてが回想である。贅沢をしなければ、こんな回想をしなかったかもしれない。できなかったかもしれない。昨夜遅く、6日間ホテルに泊まりながら仕事をして、やっと自宅に戻った。仕事が山のようにある。明日からは、また遠方での仕事が1週間。初孫が側で
「じいじ、じいじ」と遊びをねだっているが、心を鬼にして、今日も私はまたがむしゃらに働いている。(今月は、特に私的な話にお付き合いいただきありがとうございました)

 

出会い 2004年5月

 私は、研修家。研修屋ではなく研修家である。講演や講座で明け暮れる毎日だ。日々多くの出会いがある。昨年から今年にかけて、素晴らしい方との出会いのラッシュが続いている。かつてとは違った人脈が増えた。

 いくこ先生は、私が押しかけて(勝手に)フアンになった素晴らしい女性。松本先生の奥様である。松本先生は、パソコンスクール(株式会社 ファシル)の社長。つまり、ご夫婦なのだ。両先生には、私の妻が、長年親身なご指導をいただいている。何をやっても長続きしない妻が、パソコンにはとても熱心だ。
指導者が良いからこその長続き、と敬服していた。いま、私も松本先生にご指導をいただいている。(大変できの悪い生徒だけれど・・・)松本先生は、フランス勤務の経験もおありで会社では将来を期待されていた実力派。でも、“いつかは辞めて何かをしたい”と夢を描いていたそうだ。その夢を実現させたのが、「今年辞めなかったら、一生辞められないわよ!」の正月早々のいくこ先生の渇。いくこ先生は、国立音楽大学教育科卒の才媛。ピアノ教師として情熱を傾注して大活躍。順風満帆だったいくこ先生の人生。しかし、その一言が地獄を見ることになる?!

 1992年11月に松本先生が会社を設立。貯金が底をつくまでにそう時間はかからなかったようである。
そこからいくこ先生の『細腕繁盛記』が始まる。どれだけ大変だったかは、私には分からない。 分かるのは、いくこママズパソコンスクールを4校(柏、千葉、船橋、町田)開設していることと、いくこ先生の賢さである。女性の賢さは、二人三脚をみているとよく分かる。夫婦の歩調と波長が傍目に小気味よく映る。無理なく自然体でお互いを立てている。そして、驕りが微塵もない。もう一つ、賢人には、哲学がある。【職場は選ぶことができますが、やってくる仕事は選べません。仕事を選べる贅沢ができるのは、仕事をし続けた末の大先生か、本気ではない人だと思います。】こんなメッセージを、お忙しいのに毎日欠かさずホームページで発信している。毎日書き続けられることが凄いと思う。昨今、商売丸出しで何と哲学のない本が多いことか。いくこ先生のホームページが私には余程参考になる。全力投球しているように見せないで、いつも全力投球をしている。だから私は賢いのだと思う。全力投球しているように見せて、全力投球しないのは、とてもたやすいことだから・・・両先生の会話も面白い。夜9時以降は食べない約束をしても、「夜の12時を過ぎれば翌日だからかまわない」そう言って二人で夜食を食べる。ユーモアもたっぷりのご夫妻だ。

 素晴らしい指導者に出会え、私も少し大きくなれたような気がする。深謝。(いつものように、である体で書かせていただきました)


いくこママズのホームページ http://www.facile.co.jp

 

賢い人・賢いお店で 2004年4月

 『真剣だと知恵が出る 中途半端だとぐちが出る  いいかげんだと言いわけばかり』カウンターに座った私の目に真っ先にその言葉が飛び込んできた。注文した焼酎の水割りが出てくる間「そのとおりだなー」と、しばし感心し反省した。「お待たせしました!」弾んだ声とママさんの笑顔が、疲れた体と心を癒してくれる。

 神奈川県には仕事でよく伺うが、伊勢原市は初めてだ。例年3月は、1年間の整理と充電のため仕事をしないで1ヶ月休むことにしている。でも今年は勝手が違った。飛び込みの仕事が入り、テキスト作りやもろもろの準備で夜なべが続いた。研修の初日は、いつもそうだが、ことさら疲れがドッとでた。その上、外は寒く冷たい雨。ホテルの近くで食事をとることにした。すぐ近くに大手チェーン、居酒屋Y店の大きな看板が見えた。「どこでもいいや」そんな思いで店に入った。

 研修2日目も朝から寒い曇り空。幸い、夜は雨の心配は辛うじてなさそうだ。いつものパターンで街を散策。長年ホテル住まいをしていると、
嗅覚が働くようになる。「高橋さんは、良いお店を探すのがうまい!」と、仲間にほめられる。でも、何度訪れた街でも気に入った店に恵まれないことも多い。その日も、ずいぶんとお店を探したが、何となく暖簾をくぐる気がしない。結局、昨夜のY店に足を向けることにした。Y店の手前で足が止まった。Y店のネオンが目立ち過ぎて、昨夜は見逃してしまったようだ。【のりこ】と言うネオンが小さく遠慮そうに灯っている。一瞬、スナックかと勘違いしてしまいそうな名前だ。入り口に盛り塩が置いてある。私は、こんな店が好きなのだ。迷わず暖簾をくぐった。

 雰囲気で常連さんの多い店とすぐ分かる。タイミングをみて、ママさんに声をかけた。「素敵な言葉ですね!コピーありませんか?」「コピーはないけど、私の手書きでよろしかったらさしあげますよ」と、ママさん。見ると
実に達筆な毛筆である。驚き!!「これもどうぞ」と、クリアホルダーまでいただいた。素晴らしい気くばりである。そして、料理がまた泣かせてくれる。備長炭のポータブル七輪で、新鮮な、海・山の幸、野菜や肉が食べ放題・焼き放題。それでお通しまで付いてポッキリ1,000円。「これじゃ注文の度に足が出るのでは」と、心配になる。結局、4夜お世話になった。忙しい中、会話のお相手もしていただいた。岩手県出身、勉強家(よくセミナーを受講している、心理学も学んでいるようだ)、パソコンもやっている。時々、老人ホームを一人で訪問、津軽三味線を披露して喜ばれているとのこと。【のりこ】は本名ではない。年齢は?。とにかく頑張り屋で、賢い人だ。賢い人と飲む酒は格別においしい。

 トイレが近いのに4夜目に初めて入った。トイレのきれいさでお店の質が分かる。想像していたとおりきれいな空間だった。お店が混んで忙しそうだったので、ほめそびれて失礼してしまった。ママさんと呼ぶべきか女将さんと呼ぶべきか迷ったが、やはりママさんが似合うと私は思う。また伺いたいと思う。

 帰ってから、いただいた書を部屋に貼り、小さくコピーして手帳にはさんだ。

 

やめてほしい日本語 2004年3月

 2001年9月に発売された斎藤 孝氏の著書「声に出して読みたい日本語」が超ロングセラーになっている。著者は、とりあげた言葉を日本語の宝石と評している。とても素敵な本だ。でも、あえて私は、今月のテーマに「やめてほしい日本語」をとりあげることにした。


 病院の待合室、「○○さん、
あとで○○先生が検査結果をご説明なさいますから、もうしばらく待ってね・・・」看護師が患者に説明している。会社なら笑われる。ドクターは、やっぱり偉いんだ?
 役所の総合案内で「その件でしたら、恐れ入りますが
○○課でうかがってください」愛想が良いからまだ救われるけれど、なんだか変。窓口で住民の質問に「○○と△△と印鑑をご持参ください」と説明。「持参」は、本来自分の行為に使う言葉なのに。そして、帰る住民の背中に向かって「ご苦労さまでした」のひと声。でも、あいさつが無いよりはまだましか?
 仕事柄ホテル住まいの多い私は、よくコンビニを利用する。「
千円からお預かりいたします」こんな言葉も気になって仕方がない。「千円お預かりします」で良いのに、と思う。
 電車のホームに立っていると、「○番線に間もなく
電車が参ります」のアナウンスを耳にする。猫や犬がくるときも「参ります」と言うの!
 若い頃、上司に注意されたことがある。飲み屋に誘われて「何を飲むの?」と聞かれて「
ビールでいいです」と言ったら「そういうときは、ビールがいいです」と言うもんだ、と叱られた。
 老若男女に限らず、言葉の最後に
じゃん」を付ける会話が多い。「それっておもしろそうじゃん」「結構いけるじゃん」「そんなこと言ってないじゃん」これじゃぁ、引越しのサカイと同じじゃん。
 電車の中で席を譲るのは難しい。お年寄りに席を譲りましょう、と言っても年令札を下げている訳ではないので判断にとても迷ってしまう。いつだったか前の座席に座っていた若い女性が、乗り込んできた男性に気づくと(私の目にも高齢者と見えた)スッと席を立ち「どうぞ」と席を譲ろうとした。ところがその男性は、「
結構です!」と憮然とした表情で立っている。立った女性も居場所に困りその場を去った。こんなときは、「ありがとう」と素直に厚意を受けるべき、と私は思う。


 数え上げたら限(きり)がない。今月は此の辺で・・・

 
 
 

生きること、働くこと、輝くこと 2004年2月

 私は、タクシーに乗るのが好きである。少し贅沢かもしれないが、1ヶ月平均するとかなりの利用回数になる。よく訪れる土地では、馴染みの運転手さんがいるくらいだ。タクシーの運転手さんには、さまざまな経歴の持ち主がいてその会話から得ることが実に多くある。

 先日、地元に近い船橋で乗せていただいた運転手さんもすこぶる愛想が良かった。靴メーカーに長年勤めていたが、会社が倒産して50歳で運転手になったと言う。製造現場の経験、そして、営業経験もあると教えてくれた。
なるほどと、接客にそつがないのが頷けた。千葉県では最大手のMタクシーで定年を迎え、その後、Kタクシーから誘いがあり嘱託運転手として働いているとのこと。70歳になった時に退職を願い出たら「まだ働けるのにもったいない!」と社長から渇を入れられたそうだ。それから1年が経つと言う。

 「元気だから働けるんですね」と私が言うと、「元気だけでは働けません」と遠慮がちに応えた。そして、「真面目に働いて来たからこそ、いま働かせていただけるのだと思いますよ」ときっぱりと言った。さらに、「見ていないようで常に誰かが見ているものです」と付け加えた。
信用の二文字が頭をかすめた。

 「お客さんは、どのようなお仕事?」との問い。普段は、あまり仕事のことは語らない自分なのにすっかり心を開いている私。「いい仕事じゃないですか!
人様のお役に立てることほど幸せなことはありませんよ・・・」疲れていた心と体が癒された。「私もね、この歳になっても人様のお役に立てて嬉しいことがあるんですよ」と運転手さん。タクシーの勤務は、月の3分の1強で残りは休み。その休みを使って靴を作っているとの話。普通の靴ではなく怪我や病気で足に障害を負った人の特注品。きめ細かな採寸から始めて、仕上がりまで1週間かかるそうだ。材料費だけで1万5千円ほどかかるので、工賃は1万円だけで提供しているとのこと。利用者にはとても喜んでいただけるらしい。

 そんな話をしているうちに自宅に到着。料金を精算してから、さらに車の中で10分も話し込んでしまった。「いいお仕事大切にしてくださいね・・・」
71歳の先輩に励まされて、苦笑いしながら家路に着いた私。
 
 

花が咲く喜び 2004年1月

 新年明けましておめでとうございます。昨年は、「話の宝石箱」をご覧いただきありがとうございました。今年も、よろしくお願いいたします。

 花とは全く無縁だった私が花のことを書くのだから、人生とは不思議なものである。2000年の1月に初めて入院の経験をした私。それまで1日に60本吸っていたタバコは、完全にドクターストップ。苦しい禁煙との戦い。そんな時、「イライラには、ガーデニングが一番よ」と友人に勧められたのが花いじりのきっかけである。
まだガーデニングの域には達していない。あくまでも花いじりの段階である。

 その頃、我が家にあった鉢といえば、何年か前に買った「金の成る木」とやらだけ。これが、全く花が咲かない。捨てようと思ったが、いつか花が咲くことに期待して株分けして育てているうちに6鉢にもなってしまった。友人になぜ花が咲かないのかを聞いてみた。咲かない理由は二つ。一つは、花の咲かない種類があること。もう一つは、手を掛けすぎていじめが足りないせいと教えてくれた。意味が分からないので説明を求めると、「特に金の成る木は、放っておく位でないとダメ。枝も思い切って落としてみたら」と素っ気無い返事。騙されたと思ってそのとおりにしてみた。驚いたことに、去年1鉢花が咲いた。嬉しかった。今年は、4鉢が見事に花を付けた。感激した。
花へのいじめは、人に例えると鍛えにつながる思いがした。

 以来、鉢植えの花をいただく機会が増えた。一昨年も、お歳暮に友人から梅の鉢植えが届いた。育て方も分からないけれど、とにかく枯らさないことだけに気をつけてきた。今、花芽をいっぱい付けて開花を待っている。これまた感激である。小さな小さな庭だけど、人の想いもたくさん詰まっている。カーネーションやバラの花が咲くたびに時が過去にタイムスリップする。

 
そして、花づくりと人づくりがとてもよく似ていることに気がつく。今年も、誠意を持って人材(人財)育成を担う一員として精進したい。
 
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