2009年
あの人は今 2009年12月

 『夜8時、寒風の中で露天の店じまいをしている中年男性が今日もいた。余程のことがない限り店は休まない。年中無休といっても過言ではない。私たちが結婚した30数年前は、近くに大手スーパーなど皆無だった。もちろん、コンビニなどもない。ほとんどが小さな商店だった。そんな中でスーパーKは、当時としては、食料品を専門に扱う大きな店として大繁盛していた。市内に2店舗を構えていた。しかし、大手スーパーIの出店で閉店に追い込まれた。今でもシャッターがおりたまま建物は残っている。もう1店舗もまったく同じ理由、大手スーパーTの出店で閉店。こちらの店は取り壊され、今は1階を駐車場にした2階建ての回転寿司店になっている。土地を転売したのか貸しているのかは分からない。もちろん、倒産による負債の有無も分からない。分かるのは、その回転寿司店の駐車場の1角を借りて、冒頭の男性が野菜や果物を広げて売っていることだけだ。そして、その男性が紛れもなくスーパーKの経営者だった人である、ということである。』

 この記事は2005年2月「栄光との訣別」と題して配信した記事の抜粋である。当時、かなり反響があったことを記憶している。2階にあった回転寿司は翌年には閉店となり店は取り壊された。駐車場は雨が凌げる程度の天井だけ付いて今も残っている。その駐車場で、あの人は今も朝から夜遅くまで店を開いている。年中無休は間違いない。最近、月に1〜2回立ち寄らせていただく。「精が出ますね!」と私。「じっとしていられない性分なだけですよ・・・」と屈託が無い。夏の暑さもさることながら、これからの寒さは体に堪えることと思う。でも、これまで一度も辛そうな様子を見たことがない。「いつも笑顔」、それは今でも変わっていない。

 念願の情報誌『ランタナ』(4P版ですが)を創刊しました。順次、発送の手続きを進めております。中旬までにお手元に届かず、購読をご希望の方はメールでお知らせください。無料でお送りいたします。今年も宝石箱に12話を納めることができました。来年もよろしくお願いいたします。よい年末年始をお過ごしください。
 

久々の感激! 2009年11月

 「ここ数年、テレビドラマがつまらない・・・」、やけにそう思う。そんな中で、先日のドラマは『超』が付くほど面白く感激した。

 日本の画家、山下清(やましたきよし、本名:大橋清治)は、日本中を放浪したことで知られている。1922年3月10日生まれ。3歳の頃に罹った病気の後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。ナイフで級友を傷つける事件を起こして、現「八幡学園(市川市)」に収容される。この学園の生活で「ちぎり紙細工」に遭遇。これに没頭していく中で磨かれた才能は、精神病理学者式場隆太郎たちの指導愛により見事に開花。多くの人々から賛嘆を浴びる。戦後は「日本のゴッホ」「裸の大将」とよばれ多くの作品を残したが、1971年7月12日、脳出血のため49歳の若さで死去。

 山下清をモデルに「裸の大将放浪記」、のちの「裸の大将」がドラマ化された。芦屋雁之助主演で彼の代表作で有名である。彼の役どころ(キャラクター)が、あまりにも適役で強烈なせいか、1997年の放映でこのドラマは一旦封印された。10年後の2007年9月1日、フジテレビ『土曜プレミアム枠』で、山下清役に映画『間宮兄弟』で頭角を現したお笑いコンビ・ドランクドラゴンの塚地武雄を起用して復活。以降、08年5月24日、08年10月18日、と放映され、今回第4弾として09年10月24日「裸の大将 火の国・熊本編」が同プレミアム枠で放送された。女優市原悦子との共演。巻き起こす愛珍騒動に、久々に泣いた、そして大笑いした。それにしても『塚地武雄』の演技は、芦屋雁之助と比べて見劣りしないものだった。素晴らしい!!見逃した方は、DVDの発売に期待を。
 

プロフェッショナル 2009年10月

 ある日の私は、都内『池上本門寺』の近くで研修の予定が入っていた。タクシーと電車を乗り継いでどんなに順調にいっても、東京駅までは40〜45分はかかる。事情があって17時56分発の新幹線にどうしても乗らなければならないのだ。研修は5時までの予定。場合によっては間に合わないかも知れない。

 数年前に知り合ったタクシードライバーの金子さんに相談した。(遅くなったときなど、よく自宅まで送っていただく。相性が合うのか車中では会話が途絶えることがない)「17時ぴったりにタクシーに乗っていただいたら責任を持って間に合うようにお送りします」との返事。さらに「できたら、2分でも3分でも17時前に乗っていただくとありがたいのですが・・・」と言った。その場で当日の予約をお願いした。

 いよいよ当日。研修担当の方も「5分程度なら早めに終えて結構です」と配慮してくださった。ところが、私の運営のまずさと参加者の白熱した『ロールプレィング』で時間が延びてしまった。かといって研修を中途半端に終えることはできない。最後に慌しい思いをお掛けしたお詫びを述べて飛び出すように教室をあとにした。タクシーに乗ったのは、17時17分。ふた言三言の会話をして車は走り出した。社内は無言。重苦しい空気が流れる。10分ほど走ったところで言った。「金子さん、もうあきらめましょう・・」と。金子さんの返事はない。頭の中で何かを真剣に考えている様子だ。17時40分、「高橋さん!賭けをしていいですか」の言葉で沈黙が破れた。「これから首都高速に入ります。確か記憶では、東京駅の新幹線の真下に出口があります。降りると階段の上に鉄の扉があるはず・・・その扉を開けるとコンコースに出られるはずです」と言うのだ。祈るような思いで首都高速に入った。3分後、「高橋さん、おそらくもう大丈夫です!」と金子さんが笑みを浮かべた。17:47分、鉄の扉を開けた。駅だ。しかし、改札口が見えない。200mほど重いカバンを持って全力で走った。ホームにまだ予定の新幹線がいる。飛び乗ると同時に床にへたり込んだ。数秒後、静かに新幹線が走りだした。執念で間に合わせようとしてくださったプロの心意気に頭がさがった。
 

高橋が泣いた、その2 2009年9月

 この研修業界で独立して15年が経つ。覚悟はしていたが、病気もそうだが、それ以上に『人の死』に直面したときは本当に辛かった。「父がいよいよ危ない」、と報を受けたのは確か月曜日だったと記憶している。金曜日までは既に指名の研修が入っている。帰るわけにはいかない。体が空いているのは土曜と日曜日だけだ。変な話だが、親父には遅くても金曜日には天国に行ってもらわないと、日曜日の告別式は無理だ。私は郷里(山形県)を離れて千葉県に住んでいるが喪主である。「喪主のいない告別式など聞いたことがない」と笑うに笑えない話だが、二人の姉は必死でタイミングよく息を引き取ることを祈った。2001年1月21日(土曜)の明け方、父は逝った。日曜日の火葬証明がとれるギリギリのタイムリミットだったという。バタバタと父の葬儀を行い、まだ途中だったが、その足で翌月曜日の仕事先に向った。

 私の大の親友は、高校3年のとき交通事故で亡くなった。上に姉が二人いる長男だった。以来、彼の親父さんは私を実の息子のように可愛がってくれた。上京して来たときは、上野でよく飲んだ。我が家にも来ていただいたことがある。私も、帰省する度に機会をつくり彼の墓参りもしていた。しかし、独立した頃から(いまになれば全ていい訳だが)実家にも彼の家にも足が遠のいた。自分のことだけで精一杯だった。父が亡くなる頃は年間の実働日が200日を超えていた。人生が仕事だけで廻っていた。親友の親父さんも今年の1月お亡くなりになった。葬儀には行けなかった。人間として欠いてはいけない“大切な義理”を欠いてしまった。最後にお会いしたのはいつだったろう・・・そのことさえ思い出せないのだ。自分の人生に大きな汚点を刻んでしまった。8月にお詫びの墓参りをさせていただいた。施設から一時帰宅していた亡き親友のおふくろさんは、認知症がかなり激しく進んでいた。やせ細った手を握りながら高橋は後悔の涙を流した。

 父が亡くなってから実家は空き家になっている。7回忌もトンボ帰りだったから、ほとんど中の様子をじっくり見たことはなかった。8月の帰郷の際、2時間ほど空き家に入った。状差しや引き出しには孫が写った年賀状が大切に保存してあった。日記帳も残っていた。(怖くって中を見る勇気はなかった)まもなく築100年になる家だが、私の責任で年内中に解体することに決めた。
 

高橋が泣いた、その1 2009年8月

 5月の連休明けから猛烈に忙しかった。よくぞ体調不良に見舞われずに7月までを乗り越えたと自分で自分にエールを贈っている。手前味噌だが、かなり仕事もよい出来だったと思う。

 5年前、言語に障害がある(極度の緊張性ドモリ症)職員と出会った。彼女は2日間の研修を必死で耐え抜いた。今でもその光景が鮮明に頭の中に残っている。以来、1年に1回、その自治体の研修に伺っている。その度に、心のどこかでズーと気になっていた。男性職員なら迷いもなく声を掛けていただろうが・・・その職員と研修先のEさんのお計らいで先々月、研修時の昼休みを利用して再会できた。この5年間は、語りきれないほどの苦労をしたと言う。それでも、「誇りを持って今の職場で働いています!」、と爽やかな笑顔で語ってくれた。会話も滑らかになっている。「本当に良かった!」と心の中で泣いた

 6月の下旬、某自治体の2日間研修を終えた。(同じ研修は7月中旬にも予定されていた)数日後、研修に参加されたNさんからメールが入った。「7月中旬の研修日の夜、都合が付いたら、ぜひ、研修フォローアップの会をやりたい」と。料理屋の二階を借り切ってその会が開かれた。私を含めて10名が集った。幹事さんのお膳立て・進行が見事だった。全員に宿題が出されている。研修で学んだプレゼンテーションの基本を押さえながら各自3分程度プレゼンをする趣向が凝らされていた。テーマは『研修で学んだことをどう実践しているか』だった。ひとりのプレゼンが終わると、笑いあり・感動あり・質問ありと座敷いっぱいに大輪の花が咲く。アッという間に3時間が経過した。話力の成せる醍醐味ある宴会(研修フォローアップの会)を数十年ぶりに再体験した。40年ほど昔、話し方の学校で学んでいた頃、200円会費の『クリスマスパーティ』や『新年会』がよく開かれた。乾き物にジュース1本程度の会だったが実に楽しかった。それもまた話力の成せる醍醐味ある宴会だった。私は、タイムスリップしたような思いで、皆さんの3分間プレゼンに聴き入った。そして、ホテルに戻ってから、今度はなつかしさと感謝の涙を流した。
 (配信に際して、ご本人の了解を得ておりません。ご容赦ください)

 ここ数回の配信に、『です・ます体』表現がありました。お詫びいたします。陽気が不安定です。お体をご自愛ください。
 

七夕飾り 2009年7月

 来週7月7日は七夕。これから全国各地で七夕祭りが開催されるでしょう。8月6日から始まる東北3大祭りの一つ「仙台七夕祭り」はご存知の通り特に有名です。この祭りでは、78年に発売、110万枚を超えるヒットを記録した『青葉城恋歌』が、アーケードのあちこちで流れるそうです。関東では、平塚市の『七夕祭り』が有名です。

 今年も、近所に住む浜田さんが笹竹をもってきてくれました。老夫婦(?)と近所の吉田さんで飾り付けをしました。この行事は3年か4年続いています。お願いのカードは、欲張って私が「家内安全 みんな元気で」「頑固に真面目に」「クロネコ坂本さん 安全運転」の3枚。妻はつつましく1枚。「現在をキープ」と書いた。あまり現在をキープされても困るのだが・・・
 

銀座に生きる 2009年6月

 斉藤里恵さん(25)は、青森市の出身です。髄膜炎の後遺症で、1歳10カ月で完全に聴力を失いました。高校時代に洋服屋でアルバイトをしたのがきっかけで接客業に興味を持つようになりました。19歳のときに知人の紹介で水商売の世界に飛び込んだそうです。手話はほとんどできないため、会話の手段は筆談だけ。相手の声が聞こえないだけに気持ちを読む、気くばりは抜群。指名客を増やしていきました。2年前に上京、輸入関係の会社で働き始めましたが、事務仕事が性に合わず、半年でやめました。「今できることはホステスしかない」。覚悟を決めて銀座のクラブの門をたたきました。現在は、クラブ「M」でナンバーワンを争うまでの売れっ子だそうです。「同じ障がい者が前向きになれたら」との思いで最近、体験を綴った「筆談ホステス」(光文社)を出版しました。将来は、障がい者が気楽に利用できる美容院やエステがあるサロンを開くこと、と夢が拡がります。

 一方、銀座で最高齢として知られたバーテンダー、小板橋 幹生さん(91)が逝去なさいました。ご冥福をお祈りいたします。


ローカル線の旅 2009年5月

 先月、『携帯ショップ』の苦情の話を配信しました。店員○○さんの名誉のために、その後、大変親身な対応をしてくださったことをご報告いたします。

 今回は旅をした話ではない。旅をお勧めしたい話である。先日、夕食が終わってテレビを見ている私に家内が言った。「この記事、あなたの同級生のことじゃない?!」と。家内が手にしているのは、JRが発刊している「持ち帰り自由」の『旅ばあ〜ん』という月刊新聞。(それは私が持ち帰ったものだった)「え?どこに!」と新聞を覘くと“Town Guide ローカル線の旅”になつかしいご夫妻の顔が載っている。イラストだが小学同級生の勝子(かつこ)さんは特にそっくりだ。A3サイズ1/3のスペースにお店の紹介記事が出ている。彼女は和菓子屋(店名:角松屋.0238-62-2205)に嫁いた。老舗の味を守りながら洋菓子も販売している。私も何度かご馳走になった。美味しさは抜群である。小さな街(山形県小国町)だが、口コミで全国に広がった銘菓が数々ある。『バター入りどら焼き、115円』も噂の土産の一つだ。他県から買いに来る人や宅急便扱いでのお客も多いという。みんな頑張っている、と思うと嬉しくなる。自分では見過ごしてしまったページをみつけてくれた家内に感謝。その夜は、電話で大いに盛り上がった。

 NHK大河ドラマ『天地人』で、上杉藩のゆかり米沢(山形県)が熱い。ローカル『米坂線』は、その米沢駅から坂町(新潟県)まで20駅を結ぶ。車窓から眺める渓谷は絶景だ。これからは新緑、秋は紅葉が最高に美しい。酒を片手に2両の小さなジーゼル車に乗ってのんびりするのも乙かも知れない。坂町からは、鮭の街「村上」までも近い。
 

クレーム対応から学ぶ 2009年4月

 信州A市に研修で出かけたときのことである。1泊目は温泉旅館(ホテル)に泊まった。記念に旅館の名入れタオルを持ち帰ることにしているので、自宅のタンスには各地での思い出も入った名入れタオルが結構貯まっている。2泊目は市内のBシティホテルに移動。初めて泊まるホテルだ。チェックアウトの当日、大切な記念のタオルがないことに気づく。確かに風呂場に干しておいたはず。フロントにその旨を話すと、10分後に部屋の電話が鳴った。客室係が誤ってクリーニングに出してしまったようなのでそちらを調べるので待って欲しい、とのことである。結局、8時半のチェックアウトまでタオルは見つからなかった。フロントの係が深々と頭を下げて詫びながら、「量が多すぎるので調べ切れないのでもう少し時間が欲しい」と言った。無くなったことへの不満は、もうどうでも良い気持ちになっていた。言葉づかいはイマイチだが、「申し訳ない」というお詫びの気持ちが切々と伝わってくる。クレームの初期対応が立派である。私は研修講師。『クレーム対応』の研修も数多く担当している。その度に初期対応の重要性を説いてきた。

 タオルが見つかり、翌日、宅急便で届いた。その中身が楽しみだ。私もクレーム対応のプロ。私が逆の立場だったらどう対応するかを考えた。総支配人の立場になって・・・。僭越だが、私の想像通りの対応だったらこのホテルは一流だ。勝手にそう決め込んでしまう。開封すると中身は3点。想像とドンぴしゃり。さすがだ。お詫びの印にホテルの無料宿泊券や名産品などが入っていたらまだ二流。中には『丁重なお詫び状』『きれいにクリーニングされた記念のタオル』『私が最初に泊まった温泉旅館の新品の名入れタオル(色違い)』が入っていた。

 10日前頃、購入したばかりの携帯電話の充電電池がすぐに消耗するので購入したショップに行った。その日で2回目である。応対した店員はベテランのようだが手馴れ過ぎていてとても不愉快だった。言い訳ばかりでお詫びのひと言もない。面と向かって忠告した。「なれることは反面恐いことだ」と。


心が温まる話2 2009年3月

 『春一番』が吹いたあと、冬将軍到来のような寒さが続いている。関東にも雪が降り春は遠のいてしまった感じがする。前回に引き続き、研修参加者にお聞きした心が温まる話をお届けします。

 ジャンボ宝くじが発売される度に数千円購入するが当ったためしがない。それにせっかく買っておきながら、私などは当ることよりも当るわけがないことを信じているから不思議だ。

 Mさんもそんな一人。仕事の帰りに年末ジャンボ宝くじを買った。しかし、期待をかけながらも期待はしていなかったその宝くじで10万円当った。1億円から比べたらそれは微々たる金額だが1万円だってなかなか当たるものではない。「新年早々縁起がいい!」、と心底そう思った。そして、思い出したことがあった。「10万円当ったのは売り場窓口のおばちゃん(おねえさん)のご利益だ・・・」と。おばちゃんの横には招き猫が置いてあった。購入券でその招き猫を優しく撫でるようにして「当りますように・・・」と呪文を唱えてから手渡してくれた。何気ない心づかいがとても嬉しかった、という。“千里の道も一歩から”。既に、Mさんはグリーンジャンボ宝くじを購入したことだろう。もちろん年末に買った同じ売り場の彼女から・・・。

 宝くじのグループ買いをしている皆さんも多いと思う。しかし、気を付けなければならないことがある。大きな金額が当った場合、代表者が受取人になると思うが、その時にグループ全員の受け取り委任状がないと、支払われてお金を分配する際に『贈与税』が掛かるそうだ。ご用心を!
 

心が温まる話1 2009年2月

 関東では雨が降らず乾燥で風邪が流行。九州はドカ雪と寒波に見舞われるなど不順な天候が続いている。千葉県もここにきて急に寒くなった。世の中の景気も冷え切って大変だ。そこで、研修参加者にお聞きした心が温まる話をお届けします。

 Tさんは家族旅行先のディズニーランドでアトラクションや乗り物を満喫していた。ところが、園内で借りたベビーカーが見当たらない。子どもを降ろして遊んでいたほんのわずかの時間に無くなってしまったのだ。そのことを係員に告げると、すぐに別のベビーカーを用意してくれた。そして、係員はTさんに尋ねた。「ベビーカーに何かお荷物などお入れではありませんでしたか?」と。「食べかけのポップコーン一個だけですから結構です・・・」と応えると、「しばらくお待ちください」と言ってその場を離れた。Tさんは係員を目で追った。近くの売店からポップコーンを手にして戻ると係員は、「失礼しました。よろしければ、これをどうぞ」とTさんに差し出した。

 Kさんの場合も楽しみにしていた沖縄への家族旅行のときの話。ベルさんが部屋に案内してくれた。部屋の鍵でドアを開けた瞬間、ゴキブリがその入り口付近で運動会。思わず家族で「きゃっ!」と叫ぶとベルさんは目を点にして「失礼しました!」と言って開けたドアを力いっぱい閉めた。Kさん家族を近くのソファーに案内すると「少々お待ちください」、と言って急ぎ足で立ち去った。戻ったベルさんは「申し訳ありませんが、お部屋をかえさせてください」と言い別の階に案内してくれた。別の部屋を開けると、そこには、これまで見たこともない超豪華なスイートルームがあった。
 

努力と謙虚さ 2009年1月

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 大雪や新幹線トラブルなどで大変な思いをされた皆さんも多いようだが、ここ千葉県は昨年の元旦とそっくりだ。風もなく穏やかな天候である。朝の陽射しが心地よい。

 歌手氷川きよしさんが、昨夜行われたNHK紅白歌合戦のオオトリを努めた。9回連続出場。32歳にして、ついに頂点を極め、堂々とその大役を果たした。その勇姿を見て素直に感激した。彼は福岡市の出身である。高校在学中に演歌に目覚め、数々のオーディションやカラオケ大会に出場したという。平成7年12月、NHK(BS)「歌謡塾あなたが一番」で<男の海>を歌唱。そこで作曲家水森英夫先生にスカウトされた。平成8年3月高校を卒業と同時に上京。同先生の内弟子となり3年半の修業を積んだ。そして、平成12年2月、『箱根八里の半次郎』でデビュー。以来、彼の活躍は書くまでもない。

 彼の姿から教えられることが実に多い。天才であるまえに彼は努力家なのであろう。3年半の修業がそれを物語っている。そして、テレビで見た限りだが、礼儀正しく真面目で謙虚な青年に間違いない。多くの人に愛されている雰囲気がとてもよく伝わってくる。今年は10周年記念コンサートが続くと聞く。健康に留意され盛会となることを祈念したい。

 今年もよい年でありますように。ご多幸を心からお祈りいたします。
 

戻る