2011年
公言責任 2011年12月
 
 言葉がとても軽くなっていることを危惧している。「政治家は言葉が命」。その言葉の重みすら分かっていない政治家がいかに多いことか。政治家だけではない。官僚も評論家も先生も・・・日本人全体がそんな風潮だ。
 福島第1原発事故以来、素人でも「おかしい?」と思うことに平気で嘘をついてきた東京電力、官僚、政治家、そして大学教授(評論屋)の皆さんは『公言責任』をどのように考えているのだろうか。米スリーマイル島原発事故でも炉心溶融が起こったが燃料は圧力容器内にとどまった。福島第1原発はそれどころではない。公式の発言が、ことごとく違っていた場合、『公言責任』が私にはあると思う。「今度も想定外でした」とシラを切るつもりなのだろうか。

 私は有名ではないが、研修講師である。講師の発言もまた公言である。「話したことには責任を持つ」「言ったことには責任をとる」。そのような覚悟でいつも教壇に立っている。私は研修屋ではない。研修家だ。そのプライドと責任感を失くしたら、それは詐欺だ。公言の重みは自治体職員の皆さんも同じである。

 おかげ様で、今年も12話を「宝石箱」に納めることができました。来年もどうぞご覧ください。よい年末・年始でありますようにお祈りをいたします。
 
 

あなどらずに 2011年11月
 
 初めて結婚披露宴の司会を引き受けたのは1970年頃だったと記憶している。以来、2000組以上の結婚披露宴の司会を務めさせていただいた。今の仕事も好きだが、司会の仕事も大好きだった。10年前、司会の仕事にピリオドを打った。未練が残るから「もう二度とマイクは握らない!」と決意した。
 早春に姉から電話があった。「息子の結婚式が決まったので、その日だけは必ず体を空けておいてほしい」と。結婚式は10月1日(土)の予定だ。歳をとるとお祝い事がめっきり少なくなる。久々の結婚披露宴だ。料理を食べお酒を飲んで甥の結婚を祝福しようと思った。ところが、8月を過ぎたある日の姉からの電話で、「司会で苦労をかけるけど、よろしく」との話だ。司会を引き受けたつもりはなかったので「思わずエッ!!」と叫んでしまった。「会場の専属司会には頼みたくない」というのだ。そういえば、兄弟・親戚の披露宴はすべて私が司会をしてきた。あとには下がれない。

 2000組以上の実績がある。いまでも、講演・講座で常にマイクは握っている。「10年のブランクなど、どうにでもなる」、と思った。それでも私はプロ。仕事をなめてはいけない、と思った。妻に同席を頼んでカラオケボックスに行った。そしてマイクを片手に練習した。昔の感覚が戻らない。滑舌(活舌)が悪い。結果、カラオケボックスでは2回の練習を繰り返した。『あなどらずに』良かったとしみじみ思った。仕事には謙虚でなければならないことをあらためて悟った。披露宴での司会は大成功だった。

 気まぐれ配信ですが、個人ブログを立ち上げました。5月21日分からご覧いただけます。アドレス:http://rantanas.exblog.jp/ です。ご訪問をお待ち申し上げます。
 

足かけ21年 2011年10月
 
 大変申し訳ありませんが本日配信予定分は、11月4日頃の配信とさせていただきます。

 1990年にスタートしたTBS系ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」が29日、500回目で幕を閉じた。脚本家は橋田寿賀子さん(86歳)である。手書きした脚本は原稿用紙で3万枚。登場人物は100人を超すそうだ。開始時は恋愛ドラマの全盛期。「当たらなかったら、老兵は去りゆくつもりだった。結局、20年も老兵やってんのよね」。橋田さんの弁である。最終回の放映に先立ち、思い出の場面をピックアップした特番が組まれていた。私自身、ドラマの大半を見続けてきたので、特番は、自分の人生を振り返る機会になった。20年前は私も若かったなぁ!と感慨にふけることしきりである。それにしても「厳格な敬語遣い」をセリフで貫き通した信念に敬意を表したい。併せて21年続いたことの重みと理由を真剣に学ばせていただく。さすがに最終回は涙が止まらなかった。

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初心にかえる 2011年9月

 8月29日(月)民主党党首選挙に先立ち、候補者5人による演説が行われた。政治の世界やイデオロギーは別にして、「ようやく演説らしい演説になってきた」、と(自称『話し方職人』の)私は思う。その演説の中で、各候補者が自分の生い立ちを語っていた。第95代の総理となった野田氏は地元が千葉県船橋市。無名の頃、船橋駅前で毎日のように辻立ち(辻説法)をしていた。そのことを多くの住民が覚えている。しかし、時間は人間を変えることがある。だから時折、「初心にかえらなければならない」、のだと思う。真摯に過去を振り返ってほしい。

 今日の配信は人を批判するためのものではない。演説を聞きながら、私の生い立ちを思い出させられた。前述の「だから時折、『初心にかえらなければならない』、のだと思う。」は、自分自身への戒めの言葉以外の何ものでもない。私は未だに無名であるが、それでも初心を忘れることがある。「なぜこの道を選んだのか」「なぜ、いま生きているのか」「これから何をしようとしているのか」。すべてが他人事ではない。この記事が配信される頃、私はG市にいる。G市での仕事も数年になる。今年の参加者(研修への)の皆さんは昨年以上に多い。「初心にかえる」、その思いを大切にして多くの方々の恩に報いたいと思う。

 気まぐれ配信ですが、個人ブログを立ち上げました。5月21日分からご覧いただけます。アドレス:http://rantanas.exblog.jp/ です。ご訪問をお待ち申し上げます。
 

気楽な記事を 2011年8月

 ホームページでさまざまな記事を配信させていただいている。配信本数は月15本ほどになる。何を書いたらよいのか・・・・・と、ネタ不足に悩むこと頻繁。書くことを何度か止めようと思ったか知れない。書くことに義務感がつきまとうから、なおさら辛くなる。
 書きたいときに好き(自由)な言葉で簡単に書く。そう思って個人ブログを開設した。気まぐれ配信だが、5月から書き留めている。写真の撮り方や挿入技術など未熟で恥ずかしいが、自分で配信して自分で読んできた。配信しているのを知っているのは、これまで5名の皆さんだけ。

 この機会に多くの皆さんに読んでいただきたいと、このコラムで紹介させていただきます。ぜひ、ご覧ください。(お気に入りに登録していただけましたら幸いです)

 アドレス:http://rantanas.exblog.jp/ への訪問で、5月21日分からご覧いただけます。137年続いた小学校(私の母校です)が閉校となった記事も載っています。
 

被災地に立つ 2011年7月

 29日、タクシードライバーの遊佐さん(5年来お世話になっている)と17時半に仙台市内の泉中央駅で落ち合った。梅雨の合間をぬっての猛暑は関東と同じだ。走ること1時間弱、被災地(仙台市宮城野区荒浜地区)の惨状が目に飛び込んできた。震災から100日以上が経つというのに悲惨な光景は当時のままのようだ。復興から見捨てられた、そんな感が否めない。悔しい!遊佐さんが一点を指差して言った。「私の従妹はあの辺に住んでいたんです。津波に飲まれてまだ行方がわかりませんが・・・」と。辛い事を思い出させてしまった。手を合わせて被災現場をあとにした。

 テレビの画面からは感じ取れないことがある、そのことを知った。計り知れない想いに駆られながら市内に戻る。「生きていると、いろいろあるが、生きていられることだけでもありがたいのだ」、そう感じずにはいられなかった。
 
 

生きること、学ぶこと 2011年6月

 配信が遅れましたことご容赦ください。言い訳はしたくありませんが、下記の配信で今の状況をお察しください。よろしく、お願いいたします。

 某大学で昨年から(近くのホテルで宿泊しながら)勉強しています。5月27日〜29日までは、『解剖学』を学びました。29日の夜の仕事をこなして、30日は講演を2本。翌日は富山へ移動して2日間の講座を終えました。息つく間もなく、3日から5日まで再度大学で『産業心理学』『脳科学』の授業を受けました。毎回、試験がありますから悲鳴をあげながらの学びです。
 今回『産業心理学』をご指導いただきましたI教授は、精神科のドクターです。詳細はわかりかねますが、重度の身体障がいのため電動車椅子での登壇でした。手もご不自由で、パワーポイントの操作はアシスタントの方が行いました。授業はひとコマ70分。50分過ぎた頃から疲労が濃厚です。電動車椅子のリクライニングを倒して5秒程度休まれます。そして直ぐに講義を続けます。それが3〜4回続いてひとコマが終了しました。I教授からは、その日、3コマのご指導をいただきました。指導することへの気迫を学びました。生きること、学ぶことを賢明に考えたいと思います。明日は長野県へ向け出発です。
 
 

二つの人生 2011年5月
 
 6月1日の配信が遅れております。ご容赦ください。5日程度のご猶予をいただきたいと存じます。


 市川房枝(1893−1981年)は偉大な婦人運動家であり政治家(元参議院議員)であった。市川が81歳で再度参議院議員選挙に立候補したのは、菅直人(現総理)、田上等(たがみ ひとし)らによる3か月に及ぶ強い説得があったからだ。社会民主連合から出馬した市川は見事再選を果した。二人の青年は市川を介して出会った盟友だった。1976年、菅が始めて国政選挙に立候補したときに選対委員長を務めたのが田上である。菅は1980年、4度目の挑戦で初当選し現在に至る。一方、田上は最後の望みを託して1991年県議選に立候補するも落選。この間、選挙資金の工面をするという不動産屋の手に落ち、114坪もの土地と自宅を失った。県議落選を期に政界から身を引き会社員となる。しかし、借金取りに会社まで押しかけられ自己破産の道を選ぶ。やがて家族にも見放されることとなる。いつの日からか横浜大桟橋近くの公園をねぐらにするホームレスとなった。午前3時に起床。古本を広い生活の糧とする。一日の大半は図書館で過ごした。3月11日以降、公園から田上の姿が消えた。

 彼はいま長野市にいる。長野県民の心の支援物資を震災被災地につなぐボランティアをしているのだ。昔、田上は菅に約束したことがある。「菅さんが総理になっている時は自分も必ず代議士になっている」と。

 人生とはままならず不可思議なものだ。ひょっとしたら、総理の座に居るのは田上だったかも知れない。「もしも・・・」という人生はあり得ないと人はいう。それでも、「もしも、あの時・・・」と私などはついつい考えてしまう。人の運命とはなんなのだろうか?そんなことを考えながらのゴールデンウイーク初日である。(敬称を略させていただきました。ご容赦ください。
 

複雑な心境で 2011年4月

 被災地の皆様へ謹んでお見舞いを申し上げます。1日も早い復興を心からお祈りいたします。非常時下での本配信をご容赦ください。

 半月は遊び、半月は仕事の整理をする。3月はシーズンオフだから例年それを繰り返してきた。
  昨年の夏、母校小学校(山形県)から便りが届いた。内容は「137年の歴史に幕を下ろし閉校を迎える」とのものだった。閉校記念式典は3月13日(日)に予定された。閉校の淋しさは否めないが、その日が訪れるのをずっと心待ちにしていた。式典参加の13日を中心に前後どちらか1週間程度旅行を計画した。予定を練ったが最終的に後輩との都合がつかず、いわき、仙台、盛岡方面への二人旅は見送りとなった。結果、私は12日に帰省して13日に式典に参加、その後はのんびりと近くの温泉を楽しもうと思っていた。

 こうして震災の難を逃れた私は、11日の大津波が押し寄せる映像を皮切りに、まる2週間以上、1日10時間を越えるテレビとの対面となったのだ。この間、素人でもおかしい(疑問)と思う解説を大学教授、政治家、評論家から延々と聞かされた。「心はあるのか、あったらどの部位にあるのか」。それらが真顔で語られている昨今、無人撮影機や遠隔操作可能なロボットが存在しないわけがない!言葉の持つ重みをもっと真剣に考えてほしい。

 報道がまだ語らないある事象でコミュニティが崩壊しないことを切に祈っております。本日これ以上綴ることは遠慮させていただきますが、いつか、語らなければならない国民の声を謹んで配信させていただきたいと思っております。
 

捨てる作業の中で 2011年3月

 たまった資料を整理した。大半の資料はすべて私自身がキーボードを叩きながら作ったものだ。ことさら愛着がある。それでもファイルの数を半分に減らした。最初は、必要性の有無があるかないか点検しながら処分した。中には、なつかしい書類も数多い。感傷に浸ってしまう。これでは作業がいっこうに捗らない。2日目からは眠っていた書類はドンドン捨てることにした。延べ5日間時間を割いた。処分した資料は200キロにおよんだ。限(きり)がないので、今回の整理は一段落つけることにした。

 捨てる作業の中で、ずいぶんと多くの出会いがあったことにあらためて驚く。そこには、さまざまな人生模様があった。『人は多くの人に支えられて生きている』。そのことを実感し感謝した。私自身は(研修講師として)多くの皆さんを生かし切れたのだろうか、と反省しながら。
 
 

騒然の中で 2011年2月

 私は出入り口近くの一番端の席に座っていた。帰宅のラッシュが始まる前の電車だが、それでも出入り口付近には10人ほど立っていた。突然『ドスン!』というもの凄い音がした。目の前の床に60歳代と思われる男性が倒れている。あっという間に、額からかなりの血が流れ出した。一瞬車内が騒然となった。私はといえば、情けないことに凍りついた感じで声も出なければ身体も動かない。女子高生がカバンの中からテッシュペーパーを取り出して男性の額に添えた。別の女性(30歳前後?)が車内の緊急ボタンを押して車掌と状況をやりとりしていた。しばらくして、男性がゆっくりと起き上がった。顔面蒼白だが意識が戻ったようだ。すぐに一番近くに座っていた女子高生が席を立って「掛けてください」と声をかけた。次の駅に着くと若い駅員が既にホームで待機していた。救急車も待機していることを男性に伝えている。男性は「ご迷惑をおかけしましたが大丈夫です・・・」、とか細く応えた。「本当に大丈夫ですね。それでは発車させますよ」と駅員は何度か確認してから車両を離れた。でも電車が動かない。すると上司と思われる駅員が再度やってきて同じことを確認した。この間の車内アナウンスもタイミングといい内容といい完璧だ。船橋駅(千葉県)で降りることを男性が伝えると、もう一度駅員は様子を確認して電車を発車させた。「2分遅れで発車しました」、との丁重な車内アナウンスが流れた。「えっ、2分しか遅れなかったの?」車内から声が漏れた。船橋駅に電車が着くと、また駅員がホームで待機していた。

 何もできなかった自分を大いに悔いながらも、私は十数分間の人の関わりをまぶしく見ていた。迂闊に「いまの若い人は・・・」などといったらバチが当たる。
 

しがみつく 2011年1月

 明けましておめでとうございます。本年も、よろしくお願いいたします。

 NHKホールが沸いた。彼は2時間15分の長丁場を完璧に演じ切った。正に芸人魂の成せる技である。ものまねタレントのパイオニア「コロッケ(熊本市出身、50歳)」による30周年のイベントは、多くの観客と視聴者を魅了して幕を閉じた。圧巻は『空前絶後の100人メドレー』。とにかく凄い!!どれだけの修練(鍛練)を積まれたのだろうと驚愕する。関係者によれば、彼の練習光景を見たことがないという。“能ある鷹は爪を隠す”だ。

 ・「しがみつく」気持ちがなければ仕事にはつけない ・この歳になると「人様に支えられている、助けられている」ことがよくわかる。 ・100%の仕事のあとは200%、300%の仕事をしなければ満足(認めて)してもらえない など、印象に残ったトークも多かった。ますますのご活躍をお祈りいたします。
 

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