2012年
再び現場に! 2012年12月

 藤崎 斉(ひとし)さん(55歳)は、ホテル学校と呼ばれた「東京ヒルトンインターナショナル」(現・ヒルトン東京)で学び育ちました。ウエスティンホテル東京の副総支配人や日本航空の子会社でホテルチェーンを統括するJALホテルズの役員など凄い経歴をお持ちの方です。その藤田さんが約6年ぶりに営業を再開した東京ステーションホテルの総支配人に今年6月、就任しました。
 「客室は、最高級のすしネタより値の張る『生もの』」。が同氏の言葉だそうです。「次の100年も輝き続けられるホテルに。いずれ周辺の超高級ホテルと肩を並べられるように」。どこにもないホテルを目指し、165人の従業員とともに挑戦が始まりました。
 
 

学ぶことを学ぶ 2012年11月

 4月から10月まで計20日間。日曜日に産業カウンセラー協会で学びました。船橋教室(千葉県)の受講生は50人弱。私たちのグループは11人でした。(男性5、女性6名)皆さんフレッシュで賢明で素敵な方々でした。60代は私だけ。30代前後の皆さんが大半でした。女性の皆さんの中には、お子さんだけを(自宅に)おかれて学ばれている方もいました。大変だったろうな、と心から思いました。私は人生の余暇に学ぶような気持ちがありますから頭が下がります。かなりキツイ勉強でしたが、学ぶことを学びました。10月28日に全員修了証書をいただきました。万歳! お世話になりました。
 
 

嬉しい手紙 2012年10月

 ある日、K市の市長宛に感謝の手紙が届きました。市外にお住まいの女性からです。その方のお身内(K市在住)がお亡くなりになった際、複雑な事情もあり、関係する複数の市役所に問い合わせをしたところ、他の市役所はたらい回しの対応の中、K市の職員だけは相手のことを考えた、きちんとした対応であったというものでした。その手紙は「相手のことを考え対応してくれるよい市役所だと感じた」、そして、「K市民でないのが残念だが、これからも、市民のためのよい街づくりに期待しています」、と結ばれていました。嬉しい手紙ですね。『応対は一瞬、印象は一生』という言葉があります。
 
 

半分あきらめて生きる 2012年9月

 いま、『人生を半分あきらめて生きる』(幻冬舎新書)という本を読みかけている。著者は明治大学文学部教授の諸富祥彦氏。日本カウンセリング学会の理事でもある。

・まじめで向上心の強い人にとって、「あきらめないでがんばる」ことよりも、「あきらめたくないことを、あきらめる」ほうが、はるかに辛く苦しいことなのです。・「人生は、真っ白ではなく、といって真っ黒でもない、濁りきったグレーなもの」であるということを受け入れていく喪の作業です。・人生の大半を占める「どうしょうもないこと」「なるようにしか、ならないこと」を少しずつ、少しずつじょうずにあきらめながら、心のいちばん深いところだけはしっかり満たされた生き方を心得る。・ただし「あきらめる」のはあくまで半分です。・「あきらめてよいこと」と「あきらめてはいけないこと」の区別ができる賢明な人、そうしたものさしを「自分の内」に持っている人だけが心の満足を得られる時代になっていくでしょう。(著書からの抜粋)多くの言葉がとても心に響く本です。
 

水野治太郎 先生 2012年8月

 水野先生は、麗澤大学(千葉県)名誉教授。千葉県東葛地区・生と死を考える会の代表などを務め、グリーフケア(グリーフは悲嘆の意。家族などの近親者・大切な人を亡くした人に対する心のケア)の専門家であり実践家でいらっしゃいます。過日、水野先生の「東日本大震災とグリーフケア」と題した講演をお聞きする機会に恵まれました。定期的に被災地の仮設住宅などを廻られ多くの皆さんを支援しています。
 コーヒー豆を持参して、焙煎コーヒーを仮設の皆さんにふるまった際は、歓声と大きな拍手がわき起こったそうです。自腹を切って成田市の「米屋の羊羹」もたくさん購入。お茶と一緒に召し上がっていただくとのことでした。結構なお歳とお見受けいたしましたが、お元気でご活躍です。「偉い大先生なのに驕ることなく素晴らしい方だなぁ」、と思いました。現地での切なく悲しいお話もたくさん聞かせていただきましたが割愛させていただきます。
 
 

投げ出さないで生きる 2012年7月

 還暦を迎えたK・Iさんの話です。事情はよく分かりませんが、頭を開いて大手術をしたそうです。手術後1か月で職場復帰しました。とても責任感が強く頑張り屋さんなのでしょう。でも、職場にはもう居場所がありません。管理職を外されました。家に帰って悔しさを奥さんに愚痴りました。同じ愚痴は聞く方も耐えられなかったのでしょう。やがてK・Iさんは自宅にも居場所を失くしてしまいました。そんなとき、何気なくスイミングスクールに入りました。山国で育った彼は泳ぎができません。15mを泳げるようになるまで相当な時間がかかったそうです。それでも諦めずに1mずつの遠泳に努力しました。やがて気がつくとK・Iさんは2時間半休むことなく泳げるようになっていたそうです。以来、「投げ出さないで生きる」ことのメッセージを多くの人に伝えてきました。

 本日6時間、私はK・Iさんが熱く語る『パーソナリティ理論』拝聴しました。放送大学で学ばれた知識・知恵を豊富な経験談を交えて惜しみなく語ってくださいました。「過去と他人は変えられない。しかし、自分と未来は変えられる」のお言葉も印象的でした。

 

新藤監督逝く 2012年6月

 日本最年長の現役映画監督だった新藤兼人(しんどう・かねと)さんが、29日午前9時24分、老衰のため東京都内の自宅で逝去しました。100歳でした。「原爆の子」「裸の島」など社会性に満ち溢れる作品を数多く残しました。強烈な反戦主義で貫かれていた新藤さんの映画は、自身の戦争体験に負うところが大きかった、といいます。召集を受けた仲間100人がクジ引きで次々と出撃して帰らぬ人となったそうです。終戦を迎えたときに生き残っていたのはわずか6人。新藤さんもそのお1人でした。その原体験をモチーフにした最後の作品が「1枚のハガキ」でした。大竹しのぶさんの演技がいまでも私の目に焼きついています。ご冥福を心からお祈りいたします。(合掌)

 この訃報を聞く前日、東京は15時過ぎから凄まじい雷雨に見舞われました。その頃、私は某空港行きの機内にいました。離陸直後、私は銃弾を打ち込まれたような衝撃と閃光に見舞われ、思わず「うわっ!」と声を出してしまいました。私の席の真横に雷が落ちたのです。初めての経験でした。「ご心配ありません」のアナウンスにホッとしました。驚きましたが、これで「惑い」や「迷い」もおかげ様で落ちた、と思いました。  
 
 

ゴールはない 2012年5月
  
 「毎日あるがままに生きています。やりたいことを十分にやる。やりたくないものはない。もうやりたいことばっかりで選択に困るくらいです」。昨年の10月4日に100歳を迎えられた日野原重明先生(聖路加国際病院理事長)の弁です。医師・経営者として現役中の現役としてご活躍です。「ゴールはない。通過する関所があるだけです」。とも語っています。
 1万2千人の会員を有する「新老人の会」を主宰しています。その会には生き方の三つスローガンがあります。@愛すること(愛し愛されること)Aやったことがないことを始めることB耐えること(耐えることで感性が高まって苦しんでいる人をサポートできる)、がそれです。「のんびりしたい」、と思う気持ちを反省しました。
 
 

幾年のご恩 2012年4月
 
 10年ひと昔というが、最近は3年ひと昔のような気がする。「気力・体力・知力ともに3年の違いは大きい」、と感じる昨今だ。サラリーマンからこの世界に入り24年、独立してから17年が経つ。独立当初から私を支えてくださった大半の方々が私より先輩(年長者)である。いまならば、60歳を過ぎてから現場に立つことがどんなに大変なことだったかがよくわかる。九州、中国、関西などの遠方にも(研修のために)足を運んでいただいた。当時の皆さんはいまの私より歳を取っていた。遠くの研修だからといって、お客様から「遠距離手当」をいただけるわけではない。当然、謝礼にも限度がある。近場の仕事から比べたら拘束時間は倍以上かかるのに何一つ不満をいわれたことがない。いまの私がそうであるように、皆さんもまた身体にムチ打って現場に立ってくれていたのだ。幾年(いくとせ)のご恩を深く感じる。
 「ビジネスは義理と人情だ!」、と一筋にそれを貫いている社長をテレビで拝見した。「義理と人情がすたればこの世は闇」、と歌った人もいる。古くさいと笑う人がいるかも知れないが、「義理と人情」は日本の文化だと私は思う。世の中がどんなに変わっても変えてはいけないものがある。ひと回り以上年下の後輩が同じようなことをブログで配信していた。嬉しく思う。

 幾年のご恩を感謝しながら、思い出のいっぱい詰まった書簡や資料を妻に頼んで処分した。
 

下積み 2012年3月
 
 夜9時、10時、11時台のニュース番組を可能な限り(比較しながら)見ることにしている。9時54分スタートの番組はご存知「報道ステーション」。スタッフの富川悠太アナウンサー(36歳)は、1999年にテレビ朝日に入社した。報道ステーションでは、毎日発生するニュースの現場を飛び回り、現地から生の情報を伝えている。移動の距離は想像を絶するものだ。「身体をこわすのでは」、と心配になる。懸命に取り組む真摯な姿に感銘を受ける。宇賀なつみ(26歳)は、2009年4月、テレビ朝日に入社と同時に報道ステーションの「お天気コーナー」を担当した。初めて放送したときの宇賀に私は驚愕した。度胸と渇舌の良さが抜群だ。この夜、私は宇賀が大物アナウンサーになることを確信した。「お天気コーナー」は11時前の外からのライブ放送。これも大変な仕事だ。いまは2011年入社の青山愛(24歳)にコーナーを譲り、スタジオでスポーツアナウンサーとして活躍している。(敬称略)

 言い方が失礼かもしれないが、私は人の成長にはこの下積みがとても重要だと思う。苦労は目標を目指すエネルギーとなる。そして、それが人を大成させる。民放に比べて、NHKのアナウンサーは実に怠慢だ。訓練がいい加減なのだろう。とちるアナウンサーばかりが目立つ。現地からの報道も分業化されているから苦労を知らない。駄目アナが多いのも当然だろう。
 

豪雪との戦い 2012年2月
 
 1月23日から24日未明にかけて関東も雪に見舞われた。都心は4センチ程度の積雪にもかかわらず事故など交通トラブルが多発した。
 青森県酸ヶ湯温泉では、2005年3月4日に記録した積雪501センチを更新するのは時間の問題だという。私の故郷(山形県小国町)では、場所によって177〜334センチと積雪量に幅があるが凄い量だ。屋根の雪下ろし・家の周りの除雪は欠かせない。連日のように雪下ろしによる事故が報道されている。雪と無縁な地域に住んでいると「なぜ?」と思われるかもしれない。業者に頼んだら1回当り10万程度の出費を覚悟しなければならない。(日当は1万8千円、1回当り5〜6人の人手がかかる)年金生活者には過酷な出費だ。だから何とか自分で作業をしようと頑張らざるを得ない。そして、事故に遭ってしまう。今冬は、あと2、3回の雪下ろしに迫られそうだ、という。灯油の使用量も半端ではない。ドラム缶3本程度は消費する。自治体も大変だ。道路の除雪予算がもう底をついている。豪雪との戦いはまだまだ続く。

 「そんなに大変なら街を捨てて移住すればいいのに」、という人もいる。『ふるさと』との絆はそんな単純なものではない。原発で避難している皆さんの戻りたい気持ちが私には痛いほどよくわかる。

 

静かに問いかける 2012年1月
 
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。本年もよろしくお願いいたします。

 昨年読んだ本の一節がやけに心から離れない。「何もなかったとき、あなたは本当に不幸でしたか?いまより幸せだったんじゃないですか」、の言葉がそれだ。いま、裕福ではないが人並みな生活をおくっている。
 考えてみれば故郷を離れたときは身体一つしかなかった。給料から借りた奨学金を十数年返済したくらいだから貧乏な家に生まれたことがよく窺える。結婚して子どもが生まれたときも6畳1間に4人で寝起きをしていた。かなり生活が苦しかったが、決して不幸と感じたことはなかった。私同様に妻の実家も裕福ではなかった。だから、お互いの両親が亡くなっても何も残らなかった。両親に借金が無かったことくらいが唯一の財産だ。
 恵まれているとはどういうことなのか、幸せとは何なのか、人は何のために生きるのか、そんなことを静かに問いかける一年としたい。
 
 

戻る